遺された顕微鏡

 1590年頃、オランダのヤンセン親子が2枚の凸レンズで複式の顕微鏡を発明した、と言われていますが、これについては不明の点が多く、記録が残っている1619年以前という見方が強くなっています。
 また、1609年には同じオランダのリパーシーが望遠鏡を発明。同年、ガリレオ・ガリレイは、自作の望遠鏡で木星や土星の衛星、月面の山などを発見したというように、顕微鏡と望遠鏡は、ほぼ同じ時代に相次いで発明されたようです。

 1665年、イギリスの科学者ロバート・フックは、自作の顕微鏡でノミ、シラミなどの昆虫のほか、コルク、カビの細胞など多数のスケッチで「MICROGRAPHIA」を発行しましたが、発行後、ヨーロッパでは王侯貴族や富裕層の人たちにより、顕微鏡が娯楽の対象として大いに流行したそうです。
 しかし、当時の顕微鏡レンズはまだ品質が悪く、十分な観察が出来ませんでした。そのため、オランダのレーヴェンフック(レーウェンフック)は、1670年頃に単眼の顕微鏡を発明して、赤血球やバクテリア、精子などを発見しました。
彼は拡大率を高めるために、曲率の高い非常に小さな球体レンズを作ったのでした。

 産業革命の影響もあってか、初期の顕微鏡はイギリスやフランスで多く生産されましたが、カール・ツァイスが1847年に顕微鏡の製作を開始、ライツも1870年に実用顕微鏡を生産ラインから世に送り出すと、性能の優れたドイツの顕微鏡が次第に中心となって行きました。そして顕微鏡は、科学や医学のために大きな貢献をし、また、研究目的により多機種の顕微鏡が生産されて来ました。

 顕微鏡が日本に入って来た正確な時期は不明で、望遠鏡より遅れて1750〜60年代にオランダから入って来たと思われますが、それを模した木製の顕微鏡が日本でも僅かに作られました。

 1887年(明治20年)頃からは、ドイツの顕微鏡が入荷するようになりましたが、1904年の日露戦争が始まると、ドイツからの輸入は止まり、輸入出来たのはオーストリア製品のみでした。更に1914年の第一次大戦が始まると、顕微鏡の輸入は完全にストップ。このような事態に多くの研究者や医師が困窮したため、国産顕微鏡の生産が急がれました。

 時を同じくして、1914年(大正3年)に工業生産としては国産初の顕微鏡「エム・カテラ」が発売されました。生産したのは翌年会社を設立したエム・カテラ光学機械製作所(後の千代田光学工業)です。
 1920年には高千穂製作所が生産を開始。当初の商標は「トキワ」でしたが、その後「オリンパス」に変わり、戦後、現社名になりました。また、日本光学工業(1988年ニコンに改称)は1923年頃から顕微鏡の生産を始めましたが、第二次大戦中は中断、そして戦後再び生産を始めました。

 ただ、日本の各社で生産された顕微鏡は、総てドイツ製品の完全なコピーから出発しています。それは、外観、寸法、レンズ設計のほか、ネジ一本に至るまで徹底したものでした。

 これが問題にならなかったのは、ツァイス社がイエナ大学の物理学者エルンスト・アッベを迎え入れたことに始まります。後に社長となったアッベは「人類の福祉のために役立つ機械だから」との考えから、技術の特許を取らず公開した経緯があったからです。

 ところで、東京本郷赤門前にある(有)浜野顕微鏡の先代、浜野太郎氏(1910〜1997)は顕微鏡店を経営される傍ら膨大な数の顕微鏡を収集され、愛知県犬山市にある明治村の「北里研究所」では50点ほど寄託展示されています。
 また、現社長の浜野一郎氏も継続して収集され、その数は1000台以上だそうです。
 今回、浜野氏の協力を得て、これら貴重な顕微鏡をご紹介して行きたいと考えております。

 なお、記載事項に誤りがありましたら、お教え下さいますようお願いいたします。