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鷺沼教会月刊誌 Communio (コムニオ 一致)
鷺沼教会では『Communio (コムニオ 一致)』という名の教会報を毎月発行しています。
ここでは、その『Communio』より司祭巻頭言を転載いたします。

2017年11月号
「旅路から、嘆きながら、あなたを慕う」
主任司祭 松尾 貢
 

本の聖母(ボッティチェリ画) “嘆く”という題を与えられたとき、すぐに頭に浮かんだのは、サルベ・レジーナ(Salve Regina)という聖母賛歌でした。

「元后、あわれみの母、われらのいのち、喜び、希望。旅路からあなたに叫ぶエヴァの子、嘆きながら、泣きながらも、
涙の谷にあなたを慕う。われらの為にとりなす方、憐みの目をわれらに注ぎ、尊いあなたの子イエスを、旅路の果てに示してください。おお、いつくしみ、恵みあふれる、喜びのおとめマリア」。
 そうだ。私たちは旅人、涙の谷を歩んでいるのだ。私たちの嘆きや辛苦を受けとめて下さる聖母を慕って、神の国への歩みを続けよう。そういう意味で、この祈りは、琴線に響くとりなしの祈りといえるでしょう。

 神学生時代、太宰治について卒論を書いた先輩がいて、桜桃忌のこと、太宰と聖書のことなどあれこれ聞くことができました。太宰の作品には聖書の引用が多く、詩編1回、申命記2回、マタイ12回、マルコ1回、ヨハネ1回、使徒言行録1回が引用されているそうです。
 彼の短編に『トカトントン』という作品があります。主人公は終戦の放送を聞いてから、何をしてもむなしくなり、作家に質問をします。仕事をしても遊んでいても、恋をしていても、“トカトントン”という音がしてすべてが虚しい。どうしたらいいか。作家はマタイ10章28節を引用して、「神を恐れよ」と返事を送ります。質問をしているのも太宰で、答えているのも太宰なのです。しかし、太宰は神を信じることができたかというと、そこに至ることはできませんでした。
 大塚野百合氏は「太宰は自己を責める神を発見したが、自己を許す神を発見しなかった」と解説しています。清水氾氏は太宰の詩編121編の引用に関して次のように指摘しています。
「太宰は『我、山に向かって目をあげ、我が助けいずこより来たるや』の嘆きに共鳴した。しかし、それに続く『我が助けは天と地を造られたもうた主より来る』を信じることができなかった。太宰は残念ながら詩編121編1節で終わってしまった。マタイも10章28節で終わってしまって、その後の29節、30節を読んでいないのです」と。太宰が上記のサルベ・レジナの祈りを唱えることができたなら、その嘆きは嘆きで終わることはなかったのに、と残念に思われます。

 太宰の例でも明らかなように、聖書の言葉は、聖書全体の救済史の流れの中で読むべきで、コンテキストの中で理解することが求められます。聖書は自分の主張の権威つけのために利用するものではないのです。
 2013年春からから始まった鷺沼教会の「聖書百週間」は、AとBのグループが3年間の道のりを終え、現在C、D、Eの3つのグループが聖書を共に読み、分かちあう道をたどっています。イスラエルの民の歩調に合わせて、連続ドラマのように救いの歴史がどのように発展したかを通読していく素晴らしい体験です。イスラエルの民の嘆きが希望と信頼につながっていく歩みを追体験する歩みでもあります。
 2009年1月号の「カトリック生活」誌のアンケートによると、“全聖書を通読したことがありますか?”という問いに、あると答えた人はプロテスタントの方が57%に対して、カトリックは26%とかなりの差がみられました。

 今年は宗教改革500周年の節目の年、11月19日からは聖書週間が始まります。プロテスタントの兄弟姉妹に倣って、聖書に親しむ旅をこれからも続けていきたいものです。また、「これらのことを心にとどめ思いめぐらしていた」マリアに倣い、慕いながら、嘆きの世界の中で、
 Respice Stellam,Voca Mariam,(星を仰ぎマリアを呼べ)
という中世の聖者たちの声に従いたいものです。


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