| マリアを謳う、マリアは謳う |
主任司祭 松尾 貢 |
5月は聖母月。その5月に与えられたテーマは<うたう>です。ちょうど、絶妙なタイムリーで「カトリック生活」誌5月号は“マリアを謳う”という特集を組んでいますので、“マリアを謳う”という側面は、「カトリック生活」誌に譲り、皆川達夫氏の記事や国本師と渡邊順生氏の対談を読んでいただきたいと思います。そこでこの紙面では、“マリアは謳う”という面に限って、考察してみます。
聖地エルザレム巡礼で必ず訪れる場所のひとつに嘆きの壁があります。ヘロデ大王が建てた外壁の一部で、現在のユダヤ人にとって最も聖なる場所となっています。それは2000年前の神殿の中の至聖所があった場所が、西の壁から最も近いからといわれています。嘆きの壁は、右側が女性用、左側が男性用の祈り場となっていて、聖書や祈祷書を読みつつ、身体をゆすりながら節をつけて祈りをしている様を見ることができます。
ところで、マリア様はどんなお祈りをなさり、どんな歌をうたっておられたのでしょうか。イスラエルの女性として、当然、年に何回かは神殿にお参りし、通常は会堂や家庭でお祈りしたはずです。その祈りの中身は何だったのでしょうか。 『カトリック教会のカテキズム』の中に、「詩編はイスラエルの祈りですが、何故、私たちは今もそれらを唱え続けるのでしょうか」という問いがあります。それについての答えは次のようなものです。「詩編はイスラエルの祈りですが、すべての人間の気持ち――喜怒哀楽――を神にぶつける言葉を含んでいます。さらに詩編は神の創造の業と、イスラエルに対する神がなさった不思議な業への感謝の祈りを含んでいます。詩編は私たちにどのように神に話したらよいかを教える祈りであります。聖母マリア、イエス、使徒たちは詩編を唱えて祈ったのです。」 当時のイスラエルの人たちは詩編を暗記し、それを唱え、歌っていたのです。その代表的な詩編として、詩編22、23、51、130が挙げられます。例えば、イエス様が十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神よ、わが神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか)」とおっしゃったとき、ローマ兵は解らなかったのですが、ユダヤ人たちは、それが詩編22の冒頭の言葉をとなえていることが分かっていたのです。 詩編22の冒頭は一見、絶望にも似た言葉ですが、最後になると賛美の歌に変わっていくのです。最後の29節〜32節はこう結ばれます。「主こそ王であり、国々を治められる方。まことに、地の中に眠っている者もみな、主を拝み、塵の中に倒れている者もみな、み前に膝をかがめるでしょう。わたしの魂は主のために生き、わたしの子孫は主に仕え、主のことを後の世代に語り伝えるでしょう。彼らは後から生まれてくる民に、主の正しさ、主の業を、告げるでしょう。」 マリア様も一人のユダヤ女性として、詩編を祈り謳っていたはずです。
マリア様独自の歌といえば、ルカ福音書1章47節〜55節のマリアの賛歌、通称“マニフィカト”を措いて、他にはありません。カトリック教会で教会の祈り(聖務日課)の晩の祈りにおいて毎日謳われているこの祈りは、受胎告知を受けたマリアが、従姉妹のエリザベトを訪ねた際、エリザベトがマリアに喜びと感謝の挨拶をしたあと、マリアがうたった賛歌であります。「わたしの魂は主を崇め、私の霊は、救い主である神に、喜び躍ります。主が、身分の低いはしために、目を留めて下さったからです。……」
リジューのテレーズのお姉さんで訪問会のシスターであったSr.レオニーの遺体を囲んでシスター方が歌った歌はマニフィカトでしたが、司祭やシスター、また信徒皆が人生の終わりに歌いたい歌であり、また歌って欲しい歌であるに違いないのではないでしょうか。 |
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