日本26聖人 大浦天主堂
助任司祭 丸岡 秀世
1549年(天文18年)聖フランシスコ・ザビエルによって、日本に初めてのキリスト教が伝えられ、日本布教の基礎がおかれました。
その後、1587年(天正15年)秀吉の宣教師追放令によって多難な時を迎え、1597年2月5日に、長崎西坂で京都大阪近辺のフランシスコ会とイエズス会の司祭・修道者と、信徒15人、長崎までの途中で加わった2人、合わせて26人が尊い命を捧げ、殉教しました。
さらに1614年(慶長19年)徳川幕府による追放令が出され、30万人に及ぶ信者は迫害と追放の中で歴史の表面から姿を消してしまいました。それ以来244年の間、禁教鎖国政策によって、信仰は途絶えたかに見えました。ペリー来朝により和親条約が結ばれて開国、1858年(安政5年)には通商条約によって、日本国内の外国人の信教の自由が得られ、フランス領事館付司祭として、パリ外国宣教会の宣教師が長崎外人居留地に聖堂を建立し、日本26聖人に捧げました。これが今の大浦天主堂です。それは1865年2月19日のことでした。聖堂は西坂の殉教地に向かって建てられていると言われています。それから一ヶ月経った3月17日金曜日の午後、男女の見物人が浦上からやって来て、案内をしたプチジャン師に「サンタマリアのご像はどこ?」と尋ね、マリア様のご像の前で大きな喜びのうちに「私たちはあなた様と同じ心」と言って、キリシタンの子孫であることを打ち明けました。
これが有名な信者発見の出来事でした。この日から日本の教会復活の夜明けが始まりました。パチェコ・ディエゴ神父様の『長崎の天主堂』によると、「暗黒の鎖国時代に、その素晴らしい歴史は人目をさけた地下教会の殉教と忍耐の歴史となった。彼ら伏状キリシタンの生活は、三つの言葉−苦しみ、忠実、祈り−で要約、説明できるだろう。つまり、その時代の教会は祈る教会であった。潜伏キリシタンは、ローマの在る南に向けて、夕暮れには各家の雨戸をひっそりと閉め、あるいは殉教者の墓に近い秘密の場所で、また神社に模した建物で、かつて十字架がそびえていた場所に植えられた大木の下で、彼らはひたすらに祈った。彼らは祈りながら、その祈りが結実することを待ち続けた。」この祈りが大浦天主堂で実ったのでした。
「マリア様のご像はどこ?」・・・ひたすらマリア様への思いが通じた日でもあったのです。
鷺沼教会のステンドグラスの大浦天主堂と26聖人の殉教図は、苦しみの中にあって、信仰を守り続けた先祖たちの姿を思い起こさせるとともに、感謝の祈りを捧げるよすがとなっています。
この信仰の遺産を大切に生きる決意を新たにいたしましょう。
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