聖タルチジオ
8月15日は聖母被昇天の祭日です。実は、聖体の殉教者 聖タルチジオの記念日でもあります。マリア様の祭日のかげに隠れてしまって、最近では忘れられがちですが、昔はタルチジオ会などといった侍者会があったように記憶しています。
「新カトリック大事典」には次のように書かれています。
タルシキウス Tarsicius (3世紀〜4世紀前半)
ローマの殉教者、聖人(祝日8月15日)。アッピア街道のカリストゥスのカタコンベに埋葬された。ダマスス1世は、牢にいる信徒に聖体を届ける途上、異教徒の群集に襲われ、聖体を守って死んだタルシキウスをステファノと並べて謳い上げた詩や墓碑銘を書いている。タルシキウスが祭壇奉仕者という説もある。
ヴィエンヌのアドにより殉教録に入れられ、ワイズマンの小説「ファビオラ」において脚色された形で著名になった。
以前の「カトリック大辞典」には、タルシシウスと表記され、1920年ローマに聖体礼拝およびミサ拝聴の奨励のために、少年タルシシウス大信心会が成立したと記しています。
ローマに居たとき、日めくりカレンダーの8月15日には、聖母被昇天の祭日の下に、"S.
Tarcisio, romano, accolito, protomartire della SS. Eucaristia.(+257)"と明記されているのを発見して喜び、その1枚を持ち帰り、今も持っています。
イタリアでは「タルチジオ」です。
なぜ、タルチジオにこれほどこだわるかというと、洗礼を受けるとき、苦労してこの聖人を見つけたからです。私事になりますが、私の誕生日は1月15日なので聖人伝の1月15日のところをまず探しました。適当な聖人が見つからなかったので、2月、3月と探し、やっと8月15日にこの少年殉教者に出会ったというわけなのです。
聖体奉仕者
1991年、育英高専の学生たちの英語研修に同行して、サンフランシスコから、かなり内陸に入った、フレズノという地方都市に行きました。彼らはそれぞれホームステイで、私たちは宿舎に泊まり、朝、彼らが通う学校に合流していました。
ミサは、私的信心業ではない、共同体の祭儀だということで、ひっそりと宿舎でミサを捧げることをせず、私は毎朝、宿舎の近くにあった教会に出かけ、そこの教会の神父さんと信徒たちと一緒にミサを捧げていました。週日には、「教会の祈り」の「朝の祈り」とミサの組み合わせでした。
主日には、十字架持ちを先頭に、その日の朗読者は朗読聖書を捧げ持って荘厳に入堂し、聖体拝領の時になると、男女4人ほどの人が祭壇に上り、まず御体、そして御血をいただいてから、聖堂の各所でご聖体を授けていたのでした。なかなか感銘深いミサでした。
聖体奉仕者について、違和感を持たれる方もいるようですが、聖タルチジオのように、初代教会では助祭とか奉仕者がご聖体をミサに与かれない人々に届けていたのです。ご聖体を手でいただくことも行われていました。4世紀のエルサレムの司教キュリロス(チリロ)も聖体拝領について、次のようなことを書いています。「来るべき王を迎える王座を作るかのように、手のひらをくぼめてキリストのからだを受けながら、アーメンと答えよ。」と。
残念ながら、9世紀あたりになると、人々はラテン語も分からなくなり、聖体拝領も稀になり、聖堂にはたくさんの脇祭壇ができて、司祭たちはひっそりとミサを捧げるようになりました。会衆に背を向けたミサでした。
1961年に叙階された私も、数年はそのようなミサだったわけです。第二バチカン公会議が最初に出した文書「典礼憲章」(1963年12月)は、聖体祭儀を初代教会の伝統に立って刷新し、現在のようなミサを可能にしてくれました。
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