今年の11月2日「死者の日」は主日(日曜日)にあたっていますが、「死者の日」の記念が主日の典礼より優先されています。当日の「聖書と典礼」にも説明されているように、特に祭日とか祝日とか呼ばれていないのですが、主日と重なった時にも、「死者の日」の記念が優先されます。 教会は、亡くなった方々を偲び、その方々のために祈ることを大切にしているのです。毎日のミサの中でも、常に亡くなった方のために祈っていますが、11月2日には、特別に心をこめて祈るように勧めているのです。 ところで、日本では、私たちの愛する身近な多くの方々は、洗礼を受けることなく世を去っていかれたことでしょう。 聖フランシスコ・ザビエルの手紙には、日本の信者たちが自分たちの祖先が救われていないということに、大いに心を痛め、聖人自身も、彼らの悲しみを見て、あわれみの情にかられたということが記されています。
1552年1月29日付、コーチンよりの手紙 「日本の信者たちには、一つの悲しみがあります。私たちが地獄に落ちた人には救いようがないと言うと、彼らは大変深く悲しみます。亡くなった父や母、妻、子、そして他の人々への愛情のために、彼らに対する敬虔な心情から深い悲しみを感じるのです。多くの人は死者のために涙を流し、布施とか祈祷とかで救うことが出来ないのかと私に尋ねます。私は彼らに助ける方法はないのだと答えます。……彼らは自分たちの祖先が救われないことが分かると、泣くのをやめません。私もまた……涙を流している親愛な友人を見ると、悲しみの情をそそられます。」(河野純徳訳「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」平凡社)
青山玄神父の論考に次のようなことが書かれていました。 「聖人といえども、その生まれ育った時代の長所と短所を身につけており、神の特別な導きがない限りはその限界を越えることはできない。……同様な問題はすでに古代からあり、……キリスト受肉以前の異教徒には救いがなかったとしたアウグスティヌスも、……その見解を撤回しており、トマス・アクィナスもこの撤回やその他の引用に基づいて、受洗せずに他界した異教徒にもキリスト者の祈りによって救いの恵みが与えられると説いている。……この寛大な神学思想は、16世紀のイタリアの神学者たちも堅持していたが、15世紀末葉にスペインに新しく発生した神学では……永遠に救われ得ない地獄に陥ると説いた。」(「声」1999年7月号) 残念ながら、聖フランシスコ・ザビエルは、スペイン、ポルトガルに広まっていた、この悲観的、排他的思想に影響を受けていたというわけです。 幸い、第二バチカン公会議は、明確な宣言をしています。 「なお、福音をまだ受けなかった人々も、いろいろな意味で神の民に秩序づけられている。……誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通じて認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。また本人の側に落度がないままに、まだ神をはっきり認めていないが、神の恩恵にささえられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない。」(「教会憲章」No.16)
去る10月19日、列福されたマザー・テレサが、「死を待つ人の家」でなさったことを思い出します。 路傍に横たわる瀕死の病人を迎え入れ、ひとりひとりの宗教を聞いておき、その死の間際には、マホメット教の人にはコーランを読んであげるなど、それぞれの信仰に従った死の迎え方をするように心を遣ったのです。 11月、この亡くなった方々を偲び、祈る月は、「身近な死者にも、すべての死者にも心を向けながら、キリストの死と復活の恵みへの感謝と、死を超えるいのちへの希望を告げていきます。教会が、生きている人と死者からなる、より深いいのちの交わりであるということにも気づかせてくれるでしょう。(「死者の日」聖書と典礼 P.7)
「毎日のミサの友」が、ドンボスコ社とサンパウロの共同企画で出版されました。死者のためのミサの祈願文を改めて読んでみました。そこに、洗礼を受けていない幼児のための祈りを見出しました。 「心のうれいを取り去り、慰めをお与えになる神よ、 あなたは、幼子を亡くした人々の悲しみも信仰もご存じです。 私たちのもとを去った幼子が、 いつくしみの、み手に抱かれていることを悟らせてください。」 (「毎日のミサの友」 P.2376)
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