イスラエルの民は40年間荒れ野を旅して約束の地にたどり着きました。それは彼らの想像を絶する大変な旅でした。奇跡のうちにスタートしたにもかかわらず、考えもしなかったとことが次々起こり、神様の存在と働きに背をむけたこともありました。彼らが困難なことに直面した時、神様はご自分の力を現し、その導きが分かりやすいようにしるしを与えながら、何度も歩むべき方向を正してくださいました。このようにしてやっと目的地に着いたのに、新しい地を目の前にした時、彼らはまた戸惑いました。先に下見に行った者の報告によって、そこが素晴らしい地であることが分かっていても、実際に一歩踏み込むためには、神への信頼と勇気が必要だったのです。
私たちの四旬節の歩みも終わり、目の前にあるのは復活されたイエス様、新しいいのち、新しい生き方です。一歩前進し、復活されたイエス様のいのちに生かされて、私たちが生きるように招かれているのです。イスラエルの民が、神に生かされていることが分かるようにマナや水のかたちでしるしを与えられたように、私たちにもしるしが与えられているのではないかと思います。新しい人間として生きるとはどんなことでしょうか。
1.光の子として生きること(新しい小聖堂)
四旬節中に新しい小聖堂が完成しました。計画の時点で考えていた以上のものができました。いつも明るい場所であることが一番の特徴です。朝日、夕日、そして夜のライトアップ、特に夕方はステンドグラスの美しいさまざまな色が、あの空間を輝きでいっぱいに満たします。大聖堂側のガラスには反対側のステンドグラスが映り、小聖堂全体がステンドグラスで囲まれたような感じがします。この小聖堂に入って静かになると、目を閉じて内に入ってしまうより、光っている方向へ頭を上げ、自然と内面より外へ身と心を向けるように引き寄せられます。新しい人間として生きることは、常に復活の光に照らされ、引き寄せられ、人間の力だけでは得ることができない輝きを周りに放つことです。そしてまた、自分のいる場所、すなわち家族、グループ、職場にある光を探し、それを大切にし、全てをあわせて周りを照らす場所にすることだと思います。
2.常にキリストを選んで生きること(受洗者)
今年は、喜びと感謝のうちに多くの受洗者を兄弟姉妹として教会共同体に迎えることができました。求道者として、それぞれが様々な歩みの中で神様に導かれて福音の価値観に基づいての生き方を選び、洗礼の秘跡を通して新しく出発しました。本人が気づかないうちに、神様は一人一人に声をかけ、遠い時から導いてくださいました。それに気づいた時やきっかけは様々です。誰かに声をかけられたこと、信者である相手とミサに通うこと、親戚の葬儀、ホームページ、幼稚園、子供の場合は親の決心・・・信仰の歩みはそれぞれによって違います。ある人にとっては大きな疑問もなくスムーズに、またある人にとっては何度も疑問を解く必要がありました。でもどちらの場合も、「今が神の時」だったから洗礼の恵みを受けられたのだと思います。イエス様の弟子として生きることは大きな恵みです。何があっても忠実に従うことができるように、神様はいつも共にいてくださいます。既に洗礼を受けている方々にとっては、新しい人間として生きることとは新たにキリストを選ぶことです。
3.ご聖体に養われて生きること(初聖体の子供達)
一年をかけて準備した31名の子供たちが、4月18日に初めてご聖体のイエス様を迎えます。これも教会共同体にとって大きな恵みです。これかもこの子供たちを大切にし、皆で育てていきましょう。復活の息吹を受けた人間として生きるためにはご聖体が必要です。主の食卓を囲むことによってお互いの交わりが深まり、交わりを築く者になれます。
この一年の鷺沼教会のモットーに沿って、交わりの喜びを多くの人々に広げていきましょう。
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