 ドミニコ・サビオは、15歳で天に召されました。今の日本で言うと、中学3年生ということになるのでしょうか。そこで、自分の中学生時代を思い出してみました。私は、中学1年生のときから、当時鷺沼教会の隣にあったサレジオ志願院に入りました。ドミニコ・サビオの名前は、そのとき初めて知りました。ドミニコが、模範的な生徒であったことや、決闘の間に入って十字架を掲げて、それを止めたこと、「罪よりは死を」ということを決意したことなどを神父さまたちから聞いたり、本を読んだりしていました。中学生の頃はもっと純粋だったのに、と思うことがあります。そのころの自分は、志願生として模範的であろうとまじめに考えていました。つまり、どういうことかというと、学校で他の人に注意したり、授業態度は他の模範となるべきだと考えていました。(その割には、終礼の前に担任の先生の物まねをしていたという矛盾もありましたが。)態度の悪い生徒を駄目なやつだと見下していたように思います。
当時、私がよく夜見ていた夢の中に、恥ずかしいのですが、次のような夢がありました。皆が教室で授業を受けています。すると突然、そこに変な男が拳銃を持って、乱入してきたのです。そのとき、なぜか私は、その男の前に走り寄り、「何をするんだ。やめろ。」と言います。そして、なぜか何の訳もなく、男は銃を発砲してしまいます。「バキューン!」 拳銃の音が教室に響き渡り、私はそのまま倒れ伏してしまいます。その後、なぜか突然葬儀の場面になっていて、学校の生徒たちのほとんどが、私の棺の周りで、おいおい泣いているのです。(笑わないでください。)
さて、このような夢は、あきらかに私のヒーロー願望の表れであり、ナルシスト的であるとも言えます。コルベ神父さまの話や26聖人の話を聞くと、自分も命をかけて、他の人を救うという、かっこいい男になりたいと思っていたのかも知れません。いつかすごいことを自分もできるかもしれないと、夢を抱いていました。それは他の人よりも自分がもっと高い理想をもっているという傲慢な気持ちの表れだったかもしれません。やがて、高校生になって、他の人も自分も同じ欠点をもった人間であり、自分が特別に優れた者でもないことに気づき、謙虚になることができました。そんな特別なことをしなくても、さりげなくかっこいい人たちがいて、隠れたところで自分を捧げている人たちの姿をみました。このような人たちが、いざというときに、行動力を発揮するのだろうと思いました。今の自分はどうでしょうか。そんなに潔く、自分を捨て身にすることが出来るでしょうか。正直言って、今の自分は、ドミニコ・サビオの倍以上この世に生きているわけですし、もはや青年とは言えない年齢になってきています。(でも、まだ若いと自分では思っていますが。)だから、ドミニコ・サビオの真っ直ぐな生き方、潔さをみるとき、今の自分とは、かけ離れていると感じます。しかし、ドン・ボスコが、ドミニコに教えたことは、なにも人目を引くような特別な行いではなく、日常生活の中で自分の務めを果たしていくことです。そうすることによって、年齢に関係なく、聖人になれるのです。日常というのは、単調で地道で、目立たないものです。しかし、そのような日常を大切にして生きることが、求められています。
もうひとつ、ドミニコが教えてくれたことがあります。彼は、他の人がした悪戯を自分のせいにさせられたことがありました。濡れ衣を着せられたのです。しかし、その不当な言いがかりに、黙って罰を受けました。その理由は、他人をかばうためだけでなく、主イエスの姿に倣うためでした。イエスこそ、無実の罪を私たちのために、負われたからです。わたしたちも、不当な非難を浴びせられるとき、イエスの姿を思い起こし、忍耐をもって人と接することが出来るようになりたいものです。また、現代でも不当な裁きを受けている人々が多くいます。その人たちに正義が行われるように、ドミニコ・サビオの取り次ぎを祈り求めましょう。
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