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鷺沼教会月刊誌 Communio (コムニオ 一致)

2005年11月号
聖体と家庭
ご聖体と家庭
ご聖体と家庭
主任司祭 小坂 正一郎
 
同じ目線に立って
 「ある時、娘が自分に嫌なことをする人のことを「許せない」とか「むかつく」とか言うので、私は彼女に1つになる前に、「愛そうね」「許そうね」と話していました。でも、そうしているうちに、彼女が本心を話さなくなってきたことに気がつきました。
 「彼女が傷ついていること、むかついていることをまず一緒に背負わなければ」と思い、そうするように努めました。それから彼女は、またどんどん話すようになり、話し終わると、自分から解決策を見つけたり、「やっぱり許す!」と明るい顔で言ったりするようになりました。」(M.Aさん)(「UNO」フォコラーレ月刊誌10月号)

正論はさておいて
 古い話しで恐縮ですが、私が学んでいたころは、まず「論題」を提示して、それについてあらゆる面から自分の主張が正当なものであることを証明して、相手の主張を覆させていこうというやり方で自分の考えている正論の展開をしながら論証が進んでいきました。しかし、上に引用させてもらった文章からも正論より大切な部分があるのだということが教えられます。
 特に、物事をリードし、指導していかねばと自負している人は、まず最初に正論から始まって、各論も自説の主張を展開しなければならないと思いがちです。私自身、教会で働くようになって、自分のオメリア(説教)がそのような学び方から身についたやり方で展開しているのではないかと反省しているところです。
 何が何でも自分が正しいのだと言う自己主張が横行している現代で、正論だけを推し進めても無理があるということがわかります。

自分を忘れて
 「家庭の幸せ、家庭の喜び、家族の調和、家族の一致は、一つに、自分ではなく、相手を眺めることの中にあります、夫が妻を眺めて自分を忘れ、妻が夫を眺めながら自分を忘れ、両親が子供を眺めながら自分たちを忘れ、子供が両親を眺めながら自分たちを忘れるなら、そのときこそ、一致と調和ができ、すばらしい幸せが成り立ちます。」(モーリス・ズンデル「慎ましい現存」p.184)

み言葉は人となって
 典礼改革前のラテン語で行なわれていた頃のグレゴリアン聖歌には、忘れ朽ちてしまうにはもったいないものが沢山あります。その中で心に響く1つは聖週間の聖木曜日、聖金曜日の答唱詩篇で歌われていたもので、歌詞はフィリッピ書2章6〜9節からのもので、そのメロディーは歌詞と合致して人を引き付けてやみません。耳に残っておられる方も多いことだと思います。
Christus factus est
キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、しもべの身分になり、
人間と同じ者になられた。
人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順だった。
このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになった。
聖櫃のうちに
 キリストは最後の晩餐において、聖体を制定され、「私の記念として行ないなさい」と言う命令を教会に、私たち弱い人間に、託され、聖櫃のうちに現存されます。このキリストをしばしば拝領する私たちですが、キリストに倣ってへりくだり、同じレベル、同じ目線になるようにと努力することが求められます。そして、その難しさをキリスト自身が成し遂げてくださったことを信じている私たちです。
 もっとも小さな社会であると言われる「家庭」において、享受している愛と幸せ、喜びと一致を自分のものに帰そうとするときすべてを壊してしまいます。自分だけしか見えないときに、すべてが破壊され、神の愛も、周りの善も存在しない生き方と化してしまいます。「神の身分でありながら、しもべの身分になられ」聖櫃のうちで私たちを愛しておられるイエスを中心に生き抜くとき、神の愛の交わりを理解することができます。
 

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