 (碑文谷教会クリプタのモザイク画) |
助任司祭 土屋 茂明 「古来、回心に励む四旬節のことを、40日の霊的戦いとか、償いの時期とか呼ぶ習わしがあり、そこには他の時期と比べて、厳しさのあることは確かです。 しかし、四旬節は何よりもその目標からして「徹頭徹尾、内面的な喜びに向けられる」(聖アウグスチヌス)ことを思い起こしたいものです。」 故中垣純神父に、四旬節の精神について、「カトリック生活」誌に書いていただいたのですが、上記のような指摘がありました。
「あなたは信じる人びとが復活の神秘を喜びのうちに待ち望み、年ごとに心を清めて迎えるように導かれます。こうして、私たちは祈りと愛のわざに励み、新しい命の秘跡に共に与り、神の子の豊かな恵みに満たされるよう努めます」(四旬節の叙唱1)
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四旬節には、9つの叙唱が用意されています。「四旬節の精神」「回心の時」「悔い改めのわざ」「節制の実り」1−4、それぞれに、このようなタイトルがつけられており、されに四旬節中の主日の福音に合わせた五つの叙唱があります。「荒野の試み」「主の変容」「サマリアの婦人」「生まれながらの盲人」「ラザロ」。
復活祭を迎えると、やはり、5つの叙唱が用意されているのです。典礼暦の1年、それぞれの祝祭日、年間の主日と週日にも数多くの叙唱が用意されていて、救いの神秘に、種々の面から光を当てています。 ともすると、私たち司祭も、ミサに与る信徒の皆さんも、あまり注意も向けずに唱えたり、聞き流したりしているかもしれません。私は時折、叙唱の深い意味をしっかり受け止めるように促し、自分自身も、しっかりと唱えるように心掛けているのです。 「復活の叙唱3」は「とりなしてくださるキリスト」というタイトルがつけられています。 「……キリストは私たちのために自らを渡し、死に打ち勝って栄光の内に生き、いつも、あなたの前でとりなして下さいます。全世界は復活の喜びに満ち、すべての天使はあなたの栄光を讃え、終りなく歌います」 シャルル・ド・フコー「ナザレトでの黙想」は、復活の喜びを、この叙唱の心を見事に言い表しています。
「あなたはよみがえられ、天へとお昇りになる。……そして今はこうして栄光の中においでになる。もうお苦しみになることはない。永遠にお苦しみになることはない。あなたは幸せでいらっしゃる。永遠に幸せでいらっしゃる。 ……神よ、もし私があなたを愛しているなら、そのことを思う時、私はどれほどの喜びに満たされ、幸せを感じなければならないでしょうか。……ああ、神よ、私は幸せです。それというのも、私が何よりも一番愛しているのは、あなたなのですから。…… 決心 ―― 悲しいと思う時、自分自身に失望した時、他の人、あるいは、いろいろな事柄に失望し落胆した時、天のおん父の右の座で、栄光の中に、永遠に幸福でいらっしゃるイエズスに思いを馳せよう。……」(シャルル・ド・フコー「霊のあふれの手記」 沢田和夫 訳) 私のメモを見ると、「霊のあふれの手記」のシャルル・ド・フコーの黙想ノートや妹への手紙などを、あちこちの修道院での講話の中で紹介していたようです。鷺沼教会の図書室にも、中央出版社版のものが入っています。現在のサンパウロからも、再刊されているのでしょうか。
ミサの始めには「回心」の祈りがあります。その第三形式は次のような祈りです。
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 | 打ち砕かれた心を癒すために遣わされた 主よ、憐れみ給え。
(会衆)主よ、憐れみ給え。 | |
 | 罪人を招くために来られた キリスト、憐れみ給え。
(会衆)キリスト、憐れみ給え。 | |
 | 父の右の座にあって、私たちのために、とりなして下さる 主よ、憐れみ給え。
(会衆)主よ、憐れみ給え。 | |
あまり使われていませんが、私は週日のミサで、時々唱えます。
復活し、栄光の内におられる主が、常に私たちのために、とりなして下さっていることを思うと、希望に満たされるのです。
「年間週日の叙唱4」もご紹介しておきましょう。
……キリストの死を思う時、愛は深められ、復活の信仰は私たちを支え、 主の来臨の約束は、私たちを希望で満たします。…… 幸いに、ドン・ボスコ社とサンパウロの共同企画で「毎日のミサの友」が出版されていますので、「叙唱」による黙想をしてみるのも、聖体祭儀によりよく参加するために、役立つのではないでしょうか。 |