| 「若さ」 |
 主任司祭 田中 次生 今月のテ−マが「若さ」だと、編集会議の時に言われて「楽勝」だと勝手に考えていました。今まで「若い中高生・高専生」に囲まれた生活でしたので、過去に書いたものとか、いろんなメモが掃いて捨てるほどあるのではないかと思っていました。でも調べてみると意外とメモも少ないし、聖書辞典・聖書思想辞典にも項目がないし、ピアスの『悪魔の辞典』にも「若さ」の項目はありませんでした。だから「今月はパス」と思ったのですが、怖い編集長の顔が目に浮かび、書き始めました。
「若さ」の第1の特徴は「過去」を持たないことです。大人は重たい過去を引きずっています。そして多くの場合、その重たい過去から逆に人間のほうが引きずり回されてしまいます。「栄光に輝く過去」の場合は、それが大きなプレッシャ−になって、肩に力が入り固くなってしまいます。
時には「過去の栄光」に溺れてしまい、自信過剰になって周囲の人たちから浮き上がってしまい、鼻持ちならぬ存在になってしまうことだってあります。反対に実績が何もないか場合、劣等感を持ってしまい、全てを周囲の責任にして逃げたり、「どうせ私なんか……」とか「どんなに努力しても私には……」と戦う前から戦意喪失、「ダメダ! ! ダメダ!!」と繰り返しているうちに本当にダメになったりします。
「若さ」の第2番目の特徴は、先の「過去を持たない」ことから来る結論です。若いということは、未来があるということです。心が希望に開かれているということです。思い切って挑戦できるということです。誰はばかることなく自分の目標を設定できるということです。そう「若い」ということは「理想」を持てるということです。この理想について密林の聖者シュワイツァーは次のように言います。「理想の力は計り知れない。一滴の水にはなんの力もないように見える。しかしそれが岩の割れ目に入り、それが氷となれば、その岩を粉砕しかねない。水が蒸気になれば、巨大な機械を動かすことができる。一滴の水の中に潜んでいる力を引き出すことができるからである。理想もこれと同じである」と。(高橋功「シュワイツァーの言葉と思想」)
聖書のイエス様の奇跡の中で、私がすごく好きな奇跡があります。それはルカ7章の「ナインのやもめの息子」を蘇らせた奇跡です。(ナインという言葉は「幸福・幸い」という意味があるそうですが、全く皮肉な話です……) 未亡人で一人息子を亡くした婦人を見て「哀れに思い」頼まれもしないのに勝手に(?)蘇らせられたイエス様の優しさを本当に嬉しく思うからです。しかし、理由はもう一つあります。それはイエス様のお言葉「若者よ、私はあなたに言う。起きなさい」です。「起きなさい」の言葉は、なにもその奇跡の一人息子にだけ言われたものではないでしょう。
イエス様の若い人たちへの気持ちが込められていると思うからです。「目覚める・起きる・顔を上げる・前進する・チャレンジする・求める」ように若者たちに期待しているイエス様の気持ちが込められていると考えるのは行き過ぎた解釈でしょうか? 4世紀アフリカで、青年アウグスティヌスは、この言葉を自分に当てはめて「イエス様は、自分に“起きなさい”と言われ、お母さんのモニカに返して下さったのである」と考え、イエス様とお母さんへの感謝を込めて、その後の信徒・司祭・司教としての道を全力疾走したのでした。教会史上でも不朽の名著「告白録」「神国論」を残したのでした。
よく知られたイエス様の言葉があります。「願え、さらば与えられん。探せ、さらば見出さん。叩け、さらば開かれん」ですが、イエス様の短い一言「起きなさい」の中に要約されています。そして「理想」を持つことによって青年は初めて、願い、探し、叩くことができるのです。ゴメンナサイ!! この言葉は若者・青年に限定するのは卑怯だと思います。全部を若者・青年に押し付けて、「ハイ頑張って!!」と逃げていけるからです。
恩師バルバロ神父は「若いということは、心が希望に開かれ、絶望しないということ、心に大胆さをもつことだ」と言います。私たちが何時までも若くありたければ、願い、探し、叩くために「起きる」必要があります。イエス様は、私にそしてあなたに「起きなさい」と言われています。 |
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