| いのち |
主任司祭 田中 次生
1970年に神学校を卒業して、私は長く学校に勤めていました。3つの姉妹校で2年間の非常勤を含めて36年間教壇に立ってきました。その中で中1は教えたことはありませんが、中2から短大の2年生まで教え、一番お付合いしたのが高1でした。教科は、宗教学・哲学・倫理・現代社会・世界史などいろいろと担当しましたが、「倫理」だけはずっと担当しました。高1とは精神年齢がほぼ同じなのか、結構楽しく授業ができたし、友達(?)も沢山できました。
3つの学校とも「倫理」では受験用の倫理ではなく「人間論」の領域を中心にしていましたので、高1の場合は高入生のための「キリスト教入門」と内進生のための「青年期」をうまく噛み合わせる必要がありました。そのため、マタイ福音書5:3〜10のミニ福音書と呼ばれる「幸いなるかな」を中心とした聖書の教え・思想で半年の授業を構成し、残りの半年は「青年期」を取り上げました。その青年期の中で特に大切にしたのは「友情」です。ちょうど思春期真っ最中の彼らにとって取っ付き易いテ−マだし、授業に対する取り組みも良いし、その延長として「異性の友人・結婚・出産・親になる事・堕胎」と繋がりやすいからです。
結婚・命などの授業では、かなり試行錯誤しました。その中で少しずつ形ができてきました。最後に落ち着いたのは次の3つの教材を中心にするということです。 1.山口百恵「蒼い時」 2.河野美代子「さらば悲しみの性」 3.NHK・VTR「生命創造」 サレジオ高専の学生たちに聞いてみると「さらば悲しみの性」と赤ちゃんの体内における成長の記録と夫立会い分娩による出産を取り扱うNHKの「生命創造」は中学校で見たという学生がクラスに数人の割でいるようですが、山口百恵の「蒼い時」はほとんどが初めてのようです。
この「蒼い時」の授業を始める前に、CDで「いい日旅立ち」を聞かせます。この歌なら今の生徒でも知っているし、何より1980年21歳で結婚しようと決めた1人の女性からのメッセ−ジとして受け取って欲しいと前置きして授業に入ります。性・結婚・引退・随想の中から拾い読みするが、特に「性と結婚」のところはゆっくりと時間をとります。 「蒼い時・第2章・性」の中で山口百恵は書きます。「愛の極致を知った女が、愛する人の子供を産みたいという気持ちを、私はごく当たり前の健康な思想だと思っている。……できてしまったから産むのではなく、望んで産む。新たにこの世に生を受ける小さな命に対して、それは最低の礼儀だろう。たとえどんな子供でも我が子として慈しみ育てていく。その子にとって完璧な母親になれるかどうかは予想もつかないが、私は大切なこととして考えていきたいと思っている」と。(下線は田中による) この下線部が大切であるし、高校生であっても人間として非常に理解し易い。お父さんとお母さんから自分は望まれないで生まれてきた、自分は両親の「失敗作」、仕方なしに両親は自分を産んだと考えることは子供にとって耐えられないことでしょう。親はある程度、子供の出生について決定できるが、子供は親も選べないし、勿論生まれてくることを決定することはできません。私はこの「礼儀」という言葉が好きです。権利義務という法的概念よりはるかに人間らしいし、「自分の子供だから、煮て食おうが焼いて食おうが」ではなく、小さな命に対する親の愛情と尊敬の気持ちを実によく表現しているので、納得しやすい言葉だと思います。そして自分自身に当てはめて考えれば、すごく納得しやすい表現だといえます。
誰が考えたのか「性」と言う言葉は "りっしんベン" つまり "こころ" が必要です。「性」における "こころ" = "精神性" の大切さを考えながらも、「小さな命・赤ちゃん」に対する最低の礼儀として「望んで産む」ことをこれから結婚する若い人たちが、もし実行するならば、これからの日本は随分「命を大切にする社会」に変化することでしょう。最近家庭内での親子の悲しいニュ−スを見聞きすることが多くなりました。難しいことをいろいろと考えるよりも、誰でも理解できる「小さな命に対する礼儀」から出発する方が、理解し易いのではと思っています。
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