| 御復活のメッセ−ジ |
主任司祭 田中 次生
福音書に記録されている復活物語は、なにかまとまりがなくもう少しキチンと整理して書けば良かったのにと思う時があります。そして私がもしイエス様だったら、復活後もう少し違った形で弟子たち接したのではないかと思います。
私だったら、弟子たちを集めてまず「反省会」から始めたでしょう。御受難・御死去・御復活と続く大切な流れを、「御受難・御死去」で挫折してしまった弟子たちを集めて、しっかりと「御受難・御死去」を受け容れることができて、「御復活」の意味を考えることができると思うからです。
聖書によると、生前イエス様は弟子たちに何回も「受難の予告」をしています。マタイ・マルコ・ルカには、それぞれ3回ずつ記録されています。しかし弟子たちには、理解できなかったのです。ですから最後の晩餐のあと、一同がオリーブ山に向かう途中「今夜あなたたちは皆、私のことでつまずくだろう」と言われたイエス様に、ペトロはキッパリ言い切りました。「たとえ、皆があなたのことでつまずいても、私は断じてつまずきません」と。そして「今夜鶏が鳴く前に、あなたは3度私を知らないと言うであろう」と言われたイエス様に「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、決してあなたを知らないと言いません」と断固として決意表明したのでした。でも結果は福音書が正直に記録しました。ユダの裏切りとペトロの3度の否認、そしてカルワリオの十字架の下には、マリア様を含めて数人の女性と弟子ではヨハネしかいなかったことなどです。聖書を少し読むだけでも「反省材料」はいくらでも出てくると思うからです。
私は聖書の復活物語を読む時にいつも思ってしまいます。「イエス様は、本当にお優しい方なのだなぁー」と。私だったら絶対に御受難の時の弟子たち一人一人のとった行動について文句を言うと思うからです。復活されたイエス様は、一度だけ弟子たちをとがめましたが、御受難の時のことではありませんでした。「イエスは、彼ら11人が食卓についているところに現れ、その不信仰と頑なな心とをおとがめになった。復活をしたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と。
復活されたイエス様の言葉を、聖書から拾ってみるとイエス様の優しさをもっと感じます。復活の朝、空のお墓で天使のお告げを受けて弟子たちの下に急ぐマグダラのマリアたちには「おはよう!」と挨拶されたあと、「恐れることはない……」と声をかけられました。ルカとヨハネは「あなたたちに "平安" があるように」と言われたイエス様の言葉を3回記録しています。ヘブライ語では "シャローム" と言われますが、聖書思想辞典は、その内容の広さ、深さを指摘しています。「人間が、日常生活で安寧を保ち、自然・自己・神と和合して生きている状態を意味している。具体的には、祝福、休息、富、光栄、命などの一切を包含する概念」と言われています。弟子たちは、イエス様の受難・十字架刑を目の当たりにして意気消沈していただけでなく、自分たちにもその魔の手を伸ばしてくるのではないかと恐れていました。また、「死からの蘇り」という初めての経験に対して頭の中が混乱していました。そのことをよくご承知のイエス様は、弟子たちに「恐れないように・平安があるように!!」とばかり繰り返されたのでした。イエス様としては、「エンマウスの弟子達」の時のようにいつもゆっくりと時間が取れれば「メシアは、必ずこのような苦しみを受けて後、栄光に入るはず」(ルカ24:26)なのを、別言すれば「復活のメッセージ」を徹底的に伝えたかったのではないかと思います。復活されたイエス様は、「幽霊」だと恐れる弟子達を安心させるために、何回も食事をされました。パンとか魚を弟子たちの前で食べられた(ヨハネ21:14)のでした。ヨハネは最後に聖書を書くとき明確な目的を持っていました。それは、イエス様が「神の子・キリスト」であることを証明することでした。でもトマスに「手のくぎの跡を見るように・脇腹に手を入れるように」とイエスさまは言われるだけで「復活そのもののメッセージ」にまではいかないのでした。
復活されたイエス様が私たちに伝えたかったメッセージは、特別な時だけでなく、私たちの日常生活の中に「復活した私はいつもあなたたちと共にいるのですよ!!」ということなのです。
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