| 家族のいのり |
主任司祭 田中 次生
「愛はまず近きから」が聖書の基本的な教えです。「夫は妻を愛しなさい」(エフェソ5:25)「あなたの父と母を敬いなさい」――これは神の約束を伴う最初の掟です――。「そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長生きできるようになります」と。 この考えを土台にしてマザーテレサはいいます。
「愛は家庭から始まります。 もし四六時中ともに生活している人を愛せないのなら どうやって一度しか会わない人を愛することが出来るでしょうか。 思いやりや親切によって 喜びを分け与えることによって ほほ笑みを投げかけることによって ささいなことを通してでも愛を表すことができます。」(『愛するために』) しかし、一方では太宰治は「家庭の幸福は諸悪のもと」と言って家庭のエゴイズムと家庭生活の安楽さを醜悪なものとして排斥しました。アンドレ・ジードも「家庭。お前を憎む。閉ざされた門」と厳しく弾劾しています。さらにフランスのある哲人は「神は人間を孤独にするために妻を与え給うた」と、何か淋しく、悲しくなってしまいそうなことさえ言っています。もし家庭が諸悪の根源ならば、なぜ神様はご自分にかたどって人間を創造されたのか? その上「彼らを祝福されて言われた。"産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。……"」(創1:28〜)と聖書が記録していることの意味を問いたくなります。また「人は一人でいるのは良くない」(創2:18)「二人は一体となる」(創2:24)と言われて、最初の家族を創造されたのかと次から次へと疑問が湧いてきます。その結果は、神様にとって決して有利にはならないと思えます。 また、昔から行われてきた「出家」や修道会の誓願も、家族から離脱して「仏・神」をひたすら求めるのです。イエス様も聖書の中で弟子の心構えとして「キツネには穴があり、空の鳥にはねぐらがある。しかし、人の子には枕するところもない」「死者に彼らの死者を葬ることを任せなさい。あなたは行って神の国を述べ伝えなさい」「すきに手をかけてから、後ろを向く者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:57〜62)と父親の葬りも家族との暇乞いも許されないのです。 「家庭・家族」に対する神様の祝福と「家庭・家族」に対する厳しい見方をどのようにして両立させることができるのでしょうか。 聖ヨハネは「神は愛である」と定義しました。古くからのグレゴリオ聖歌では「愛あるところに神はいる Ubi caritas et amor Deus ibi est」と歌われてきました。アメリカの古い諺にも「家はレンガで建てられるが、家庭は愛で建てあげていく」のです。そうするとやはり「家庭の中に神を!!」ということになります。 ガブリエル・ガルボは『家族のエネルギー』の中でこう言います。
「家族とは、神が発明されたものです。 家族を創造した神は、彼らが幸せになることを望んでいます。 神はどの華族の中にも住んでおられます。 神のことなど、まったく気にもかけない家族の中にさえ、神はおられるのです。 ナザレのイエスがされた驚くべき啓示によれば、神とは "家族" なのです。"家族" である神は、ご自身の肖像である「家族」と通じあいたいと望んでおられるのです。 ここに「かぞく」の祈りの、家族の祈りたるゆえんがあります」と。
マザー・テレサのもう1つの言葉「一緒に祈る家庭は、一緒に成長する」
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お父さんの子守歌(コンプリ神父提供)
家事に忙しい母親が、主人に子供を寝かせるよう頼んだ。しばらくして子守唄がやんだので、そっと部屋に入ってみて、小声で聞いた。「眠ったの」 「うん、ママ」と子供が答えた。
夫の自慢話
ある人が、こんな話をした。「家内は、誕生パーティの日に、節約のため、ローソクを10本減らした」と。
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