| 感動できる心を!! |
主任司祭 田中 次生
5月28日の月曜から2泊3日の日程で、目黒星美小の5年生による「尾瀬高原学校」に参加しました。仕事の関係で一日早く帰ってきたのですが、都会を離れて自然の中での生活は、心洗われるような思いでした。
尾瀬といえば「水芭蕉」です。私にとっても初めて尾瀬の水芭蕉を見るので行く前から楽しみにしていました。2日目に尾瀬の木道15.5キロを一日がかりで歩いて、自然を観察する行事が組まれていました。水芭蕉の咲くこの時期にいくのですから、先生方としては、子供たちが十分に水芭蕉を愉しんで欲しい、美しい花の咲く自然を大切にしていく気持ちを養って欲しいという意図があったことでしょう。
木道は一列の右側通行です。私は先頭の男子20名の組の後ろをまとめる係りでした。残雪と新緑の美しいコントラストの中を歩き始めて1時間、いよいよ写真で見なれている「水芭蕉」が咲いている場所にきました。なにしろ「天下の水芭蕉」です。さすがに子供たちも歩きながら「わぁ〜水芭蕉だ!!」とか「きれいだ!!」と声をあげていました。しばし美しいものを見、その気持ちを子供たちと共有していることの喜びに浸りました。しかし、私が、芭蕉の群生がくる度に、その美しさに見入っていたのに、男の子たちの関心があっと言う間に変わって行ったのです。水芭蕉ですから、当然のこと湿地や池や小川があります。そこには水の中の生き物たちがいます。魚・オタマジャクシ・イモリなど、木道の下の水辺には、淡水の生き物たちの世界が広がっています。男の子たちは「魚がいる!!」「オタマジャクシだ!!」「イモリだ!!」と見つけた子が言う度に、集まってきては「あっ動いている!!」とか「すげぇ〜」とか「わぁ!! 大きい!!」とか言って集まるのです。もちろん列も乱れるし、通行の邪魔になるので、引率の先生からの注意が入ります。そのグル−プの中にいれば、まるで私自身が注意されている気になってしまいます。で、早く行くようにせかすのでずが、なかなか重い腰をあげようとはしません。挙句の果ては「神父さま、あのイモリの写真撮っておいて!!」とか「神父さまこっちの魚を撮っておいてよ!!」とか言われてしまいました。水芭蕉のところでは、私も随分写真を撮りましたが、オタマジャクシとかイモリとか、魚など全然関心がなく、一枚も撮っていなかったのでひょっとして「田中神父さまは、水芭蕉みたいなどうでもよいものをあんなにたくさん写真に撮りながら、なんでこんなにすばらしい魚やオタマジャクシの写真を撮らないのだろう?」と子供たちは不思議に思ったのかも分かりません。その証拠に「神父さま、その写真が出来たら送って!!」と一人の子に頼まれました。水芭蕉の写真は誰一人欲しがりませんでしたのに……
小さな生き物に感動する子供たちと一日を共にして、いろいろと考えさせられました。私は「尾瀬=水芭蕉」という社会の中での固定化された感動の図式の中から一歩も出ようとはしませんでした。心から感動したというより、考え方によれば「感動という宿題」をしていたのかも分かりません。しかし、子供たちは、先生に叱られ、私から追い立てられながらも、心から「淡水の小さな生き物」に感動し、充たされたのでした。
聖書の中でイエスさまも随分自然や生き物について触れます。「空の鳥を見なさい」「野のユリがどのように育つかをよく見なさい」「種まく人が種まきに出ていった。蒔いているうちに、ある種は道ばたに落ちた」などたくさんあります。また、有名なヨハネ福音書(第10章)の「良い羊飼いのたとえ」で「……羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出し、羊をみな引き出すと先頭に立って行く」などを読むと、少年イエスさまが近所の羊飼いとお友達になり、自分も羊飼いの真似をしていろいろと羊の世話をしている姿を想像することができます。そして、羊と羊飼いとの間の心の交流に感動し、飽かずに眺めている姿が目に浮かびます。マリアさまが「晩ご飯ですよ」と呼びに来られても、いつもの従順なイエスさまとは違って、未練がましく、羊を何回も何回も振り向いて別れを告げている場面を想像しています。
チャーリー・チャップリンは「木の葉のそよぎ、風の音にも、静かに耳を傾ける心は、芸術を愛し、人間を愛する心である」と言います。そうだとすれば、イエスさまも自然の中で感動し、自然と対話し、自然に耳を傾けながら、人を愛する心を作っていったのでしょう。「イモリ」に感動した子供たちが、イエスさまのように育って欲しいと思いました。
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