| いのちを育む(まなざし) |
主任司祭 田中 次生
仏教の雑法蔵経の中に「無罪の七施」という教えがあります。人間は誰でも、たとえ財産が無くても、七つの施し(七施)ができるというものです。そしてその中の第1番目に「眼施」があります。目の施し、清らかな、澄んだ目、優しい愛のまなざしを注ぐこと。和顔施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施と続くトップに上げられているのですから、施される側が一番嬉しい施しという気持ちがその中に込められているからなのでしようか?
私たち人間にとって「みること」は大切なことです。人間だけでなく神様も世界を創造されたとき「みること」を大切にされました。「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。神は光を見て良しとされた。神様は一日一日の創造活動の後、「神はこれを見て、良しとされた」と創世記は結んでいます。古代から日本においても、天皇による「国見」という儀式がありました。天皇が山の頂上に登り、下界を見回して国に対する主権を確認するのでした。「見る」ことを通して相手を支配するのです。
同時に「みること」にはもう1つの面があります。それは「親」という字から創造されることです。親は立ち木に登っても、子供をしっかりと見て守りたいし、飽かずに見続けていたい存在なのです。心理学者の島崎敏樹は「2人の間の好き合っている間柄なら "眼差し" であり、憎みあいなら "まな刺し" である」と言いますがその "眼差し" であります。 人間でも、動物でも命あるものが育っていくためには、「まなざし」が必要です。初めて歩こうとする赤ちゃんは、母親のまなざしを求めます。叱責と祈りを込めた両親や先生たちのまなざしが、道を踏み外した子供たちを、正しい道に導いた例はたくさんあります。「まなざし」があいてを成長させ、育てていく力を持っているのは、まなざしは「愛」だからです。
少し古いお話ですが、1981年は、現役の教皇様としてヨハネ・パウロII世が、日本に初めて来られた記念すべき年です。いろいろな歓迎行事の間に武道館での「若者との対話集会」がありました。アグネス・チャンと人気の徳光さんが司会者に抜擢され、TVでも放映されましたので、多くの人たちがご覧になったことでしょう。アグネス・チャンによると、教皇様が武道館に入ってこられた時、ひと目そのお姿を見たアグネス・チャンも徳光アナもスタッフもみんな泣いてしまって番組の進行が一瞬混乱してしまったのです。「びっくりしました。感動そのものだったんです。パウロ2世は "信じて" と語り掛けるような目をしていました。"大丈夫信じて!" そういう目です。たぶんその目が人びとの心に響いて泣かせたんじゃないかな。 "大丈夫、信ずれば大丈夫!大丈夫!"」(アグネス・チャン「ひなげし語録」)
残念ながら、私はこの年ローマの研修会に参加していて、日本にいませんでした。しかし4月に行われた教皇様がローマの司教として、ローマ在住の神父達にお話する時、私たちも参加しました。お話が終わり帰られる時、私は日頃鍛えている健脚にものを言わせて一番先頭に行き、帰られる教皇様に握手することができました。「教皇様、日本に来て下さってありがとうございました」と申し上げると、「おぅ日本! おぅ日本!」と言われて、両手で私の手を握って下さいました。(その日は、同じ研修会参加者の中で、私一人が教皇様と握手ができたので、他の仲間は "教皇様と間接的に握手する" と皆が私のところに握手しに来ました。私は一日、教皇様の身代わりになったのです……)
聖書の中で、記者たちはイエス様のまなざしをよく記録しています。 「イエスは振り返り、2人がついてくるのを見て、"何を求めているのか" と言われた」ことが、ヨハネとアンドレアのイエスの最初の弟子になったきっかけでした。イエス様を「知らない」と3度も否定したペトロは「彼がまだこれを言い終わらないうちに、鶏が鳴いた。その時、主は振り向いて、ペトロを見つめられた。ペトロは……外へ出て激しく泣いた」とルカは記録します。
イエス様の「まなざし」は多くの人たちの心を温め、「自分は神から愛されているのだ」との実感を与えたのです。
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