| 「マリアは主の足元に座って、その話を聴き入っていた」 |
主任司祭 田中 次生
あるアメリカの会社の統計によると、人間の言語活動は、聞く、話す、読む、書く、の4分野に分けることができます。そして生活時間の中での割合は、聞くが50%、話すが30%、読むが15%、書くが5%ということです。こう考えると「聴く」ことをもっと大切にしたいと思います。自分自身の経験からも、生徒・学生たちが「話」をキチンと聞いてくれたときは本当に嬉しく思ったものです。 私は中高一貫教育校と高専で合計12年間校長を務めました。校長ですから、入学式、卒業式の式辞を24回したことになります。生徒・学生の心に残る話を準備するのは、それはそれで結構大変でした。しかも聖歌隊のお母さんたちは、卒業してからもメンバーとして式に参加しているので同じ話は使えないのでした。しかし、入学生と保護者たちが、緊張しながらも新鮮な表情で話を聞いてくれるし、卒業生と保護者たちが、やり遂げたという自信と惜別の表情で「最後の話」を聞こうとする姿に接するたびに、喜びを感じたものでした。時どき教職員から、「式という緊張した中でするお話を準備するのも大変でしょうね」と同情されたりしましたが、私としては、生徒・学生たちが、心を込めて聴いてくれる式辞は全然苦にはなりませんでした。したがって校長としての12年間は「キチンと話を聴く」ことがどれだけ、話し手に喜びを与えるのかの「体験学習」をした期間ということになります。
訪日した時マザー・テレサの記録映画を撮った千葉茂樹監督は、美しいマザー・テレサの姿として、次の3点を挙げています。最初に「後ろ姿」です。ふっくらとして丸く、でも温かさにあふれ、子供をあやす母親のぬくもりを感じさせます。つぎに「しわだらけの手」です。自分を必要としている人たちに対していつも開かれており、労苦をいとわぬ気持ちが手の表情を作っています。そして最後に「聴く姿」を挙げています。人の話を全身全霊を込めて聞く彼女の姿は、神々しいほどの姿だったのです。来日の時は68歳になっていたマザーは、朝は4時に起床して神様との自分だけの時間を確保したのですが、日中は秒刻みのスケジュールとTVやカメラの放列の慌しい雰囲気の中、でも彼女が人の話を聴くときの姿に、「人間の美を追求する映画監督」の目を惹きつける魅力が感じられたのでしょう。聞くことは、相手に対する「尊敬と関心」を表しています。母親は夜中でも赤ちゃんの泣き声に敏感に反応します。赤ちゃんで心が一杯になっているからです。話を聞くマザーの聴く姿には、話し手に対する尊敬と豊かな関心が、その全身を包んでいるのが分かったのだと思います。
一説によると、「親と学校の先生」が一番子供たちの話を聞かないのだそうです。親も先生も、子供や生徒が話しているときは、いかに子供や生徒を「ギャフン」とやりこめようかと、説得のすることばかり考えて、話を聞いていないからです。だから子供たちも生徒も、両親や先生から話を聞いてもらったという満足感を味わった経験のある子が少ないといわれます。
旧約聖書イザヤ書に次の一節があります。 「耳を澄まして聞くがよい、だが、分かってはならない。 眼を凝らして見るがよい、だが、知ってはならない。」 私たちは、頭が良いから、すぐに分かってしまい。すぐに知ってしまうのです。
イエス様のエピソードの中にあの有名な「マルタとマリア」の話があります。これは、ご受難の直近のエピソードです。私も自分の性格としてマルタ的だと思うので、どちらかというとマルタの味方ですで、「マリアはその良いほうを選んだ。それを彼女から取り上げてはならない」(ルカ10:42)とのイエス様のお言葉にも多少の不満をもっていました。でも「マリアは主の足元に座って、その話を聴き入っていた」(10:38)ことがどれだけ、受難の前の心寂しいイエス様にとって大きな慰めになったことでしょうか。ひょっとして、聖家族以外の人たちのあいだで「話を聴き入ってもらった」イエス様の唯一の体験だったかも分かりません。 |
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